「男女の恋愛に例えると〜」って例え話、本当にわかりやすくなってる?
今日はいつもより遅く起きてしまったが。
30分ほどウォーキングをして、湯船に浸かり、豆乳を飲み、爽やかな朝である。
こうしてパソコンをカタカタしながら見える窓の外は緑と青と白の色合いがちょうど良いカンジでテンションが上がる。
昨日干した洗濯物たちも天気が良くて嬉しそう。
劇団四季を見に行って、大西ライオンのネタでしか聞いたことがなかった
「心配ないさー」を生で聞いて感動した勢いで買ったライオンキングバスタオルは
いつも部屋を覗いてくる。(おはよう☀️)
コロナ第1波で1ヵ月ほど家にこもっていたこともあり、どうにか家を快適に過ごせる空間にしようか考えた結果、カフェよりも居心地の良い空間になってしまった。
今では外出しても、すぐに家に帰りたくてしょうがない。
(ただ日によっては全く仕事が手に付かないので、切り替えをどう仕組み化するのかがもっぱらの課題。)
湯船でふと考えたこと
そんな爽やかな始まりを迎えた今日だが、
先ほど湯船に浸かりながら、ふとこんなことを思った。
「男女の恋愛に例えると〜」
って例え話、本当に相手に伝わりやすくなってるの?
この「男女の恋愛の例」わたしには少々引っかかる言葉だ。
そもそも例え話ってなんだろう?ということで、Google先生に聞いてみた。
例え話とは、
短い話で普遍的な真理を説明するものであり、物語の中でも最も単純なもののひとつである。たとえ話においては、まず状況が簡単に説明され、次に行動が描写され、最後にその結果が示される。
〜中略〜
目的は「聞き手に、当人には直接の関わりがない、したがって利害に関わらない立場からの判断を引き出すことが期待できるような事案を提示し、聞き手自身が正しい判断を悟るよう啓蒙する」ことである
引用元:weblio辞書「たとえ話」
要するに、
「難しい複雑な話を、わかりやすく普遍的に本質を伝えること」であり、
「聞き手が正しい判断ができるようなアシストをする」ことである、と。
そういうわけである。
では、「男女の恋愛に例えると〜」は、
- 本質をわかりやすくしているか?
- 普遍的か?
- 聞き手の正しい判断を引き出せているか?
と考えてみると、少なくともわたしは「うーん・・・」と考えてしまう。
この男女の恋愛例え話は、大学の授業でも聞いたことがあるし、社会人のコミュニケーションの中でも聞いたことがある。年に数十回は聞いている気がする。
その度にわたしは、引っかかってしまう。
「いや、やめて〜」
「男女の恋愛知らないし〜」
「価値観を普遍的であるかのように語らないで〜」
本来相手が伝えたかったことがわかりやすくなるどころか、
女らしさや男らしさに基づいていることが多いし、
本質的でもなければ普遍的でもないし。
なのにそれをさも普遍的であるかのように語る姿を見て、
と要らぬ疑いを持つハメになる。
目の前の話に集中したいのに、「男女の恋愛の例え話」を使われた瞬間
わたしの思考を妨げる。
はぁ。。。笑
他の人に確かめたわけではないので、本当に主観でしかないが。
本当に多様なんだよ、男女の恋愛も。
わたしは、同性愛であること、シスジェンダーであることを自認しているわけだが。
そして強い信頼関係をで恋に落ち、性的な感情(性愛)は見た目で判断する傾向がある。でも強い絆があれば体の繋がりはいらないとも思っている。
恋愛をロマンティック、性愛をセクシュアルといって、それぞれに名前がついている。
わたしの場合は、
恋愛(ロマンティック)
強い信頼関係=デミロマンティック
性愛(セクシュアル)
見た目で判断=アンドロセクシュアル
強い絆があれば体の繋がりはいらない=フレイセクシュアル
である。
つまりわたしという人間をまとめると、
身体的性と性自認が一致しているシスジェンダーで、男性同性愛であるゲイ。
強い信頼関係を築いて初めて恋愛感情を抱くデミロマンティックで、
セックスの相手を外見で決めるアンドロセクシュアルで、
強い絆があれば体の繋がりはいらないフレイセクシュアル。
というわけである。
こんだけ1人の人間の中にあれば、男女の恋愛の例えが、いかに普遍的でないかがわかる。
もう令和なんだから
ということで。
今日はわたしの中のモヤモヤを言語化してみた。
要するに、男女の恋愛の例え話がまじで嫌い。
ということだ。笑
男は女からモテたくて、女をリードすべきで、理屈っぽい生き物
女は男から来るのを待つ生き物で、ガツガツせず、感情的な生き物
というガチガチのゴリゴリのべきべき論で塗り固められた例え話なんて
もう昭和の考え方でしかない。いや、もっと昔かもしれない。
恋愛の例え話、みなさんはどう思いますか?
やっぱりわかりやすいのかな?
でもそれぞれの恋愛観ってあるでしょ?
もっと普遍的で本質的な例え話作りたいなぁ。令和だから。